メイン [00-02]オーディオ全般 Stereo Sound No.190号 | 投稿するにはまず登録を |
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zappa1993 | 投稿日時: 2014/3/12 23:50 |
長老 登録日: 2011/3/17 居住地: 投稿: 1916 |
Stereo Sound No.190号 皆さんこんばんは
Stereo Sound誌の今季号は、個人的には読み物が面白かったように思います。 特に第一特集である「私のオーディオにとって特別な一枚」は各オーディオ評論家のオーディオチェック用のソースという意味合いで選ばれたものが多く、その思い入れや聴き所等の語り口調が熱く、読んでいて引き込まれるものがいくつかありました。 手の届かないようなオーディオ機器の褒め言葉を読むよりよっぽど面白いと思うのですが、皆さんは如何でしょうか? また、AA誌と同様に付録CDが付いており、こちらはバッハの教会カンタータ全集からの抜粋という事ですが、77分もの収録時間がありとてもオマケとは思えないような内容です。 きちんとオーディオで聴けていませんので音質等への言及は避けますが、バッハの教会カンタータは好きですのでゆっくり聴くのを楽しみにしています。 さて、今季号の中に考えさせられる記事がありました。 毎季号をお読みの方ならお馴染だと思いますが、和田博巳氏の連載記事「続ニアフィールドリスニングの快楽」です。 知人のオーディオ評論家、山本浩司氏からの手紙への返事という形で書かれているのですが、やや熱を帯びた本音のトークが目を引きました。 自らがミュージシャンであったという経歴の為かどうかは分かりませんが、音楽あってのオーディオというスタンスであるように思いますし、あまり評論家めいたところが無いので個人的には好きな方です。(演奏を聴いたこともあります) 文中に、オーディオを深く探求しようと思うと必ず立ちはだかる「原音再生」についての意見のやり取りがあるのですが、和田氏の『ぼくならば、どんな音が入っているかわからないからこそ、装置の色付けをできるだけ廃して、マスターテープにどんな音が入っているかを、可能な限り正確に聴こえる環境を整えたい、その上で虚心坦懐に聴く。』というスタンスに対し、山本氏は『マスターテープにどんな音が入っているかは誰もわからない、神のみぞ知るというのがぼくの基本的な考えです。当のミュージシャンだって録音エンジニアだってわからない。だからこそわれわれオーディオファイルは「原音再生」ではなく「グッド・リプロダクション」を目指すほかないと思うんです。』と両者の対立した考えが述べられています。 ※『』内はSS誌紙面より一部抜粋 山本氏の「グッド・リプロダクション」の言葉の意味がご本人から説明されていませんので、真意は分かりかねますが、仰りたいことはよく分かります。 私がこの記事の何に興味を持ったかと言いますと、和田氏が確信犯的に問題提起をしている点です。 やり方や言葉使いに嫌悪感を持たれる方も居られるかもしれませんが、私には氏の「このままでいいのか」という思いがよく分かりますし、それは最後の一文によく表れています。 『オーディオ評論家は、もっと恥をかかなくてはいけない。山本さんのことではないです、ぼくのことです。自分の思っていることはちゃんと言う、ということが今オーディオ誌には求められていると思いますので。』 ※同前述 問題の「原音再生」については皆さん色んなご意見があると思いますし、ただ一つの正解というものもありません。 私は基本的に和田氏の考え方と同じなのですが、山本氏が仰ることにも一理あると思います。 要はどこに落としどころを見つけるかという事だと思うのですが、この様な事を考え、真摯にオーディオ・音楽に向かい合う姿勢が素敵だと思うのです。 私はこの記事が紙面を利用した喧嘩だとは思いません。 寧ろこの様な本音の話を読み、そして本音の話をしたいのです。 今回の連載記事皆さんはどう思われましたか? |
ケミ | 投稿日時: 2014/3/13 17:59 |
長老 登録日: 2008/2/17 居住地: 投稿: 851 |
Re: Stereo Sound No.190号 zappa1993さん,こんにちは。
今季号のSS誌「続ニアフィールドリスニングの快楽」にはちょっと驚かされましたが,いつにもまして興味深く読ませていただきました。 zappa1993さんが内容の概略を説明してくださったので重複は避けますが,今までタブーとされていた(?)部分への和田氏の問題提起,そして今後の展開に期待”大”です。 「原音再生」にはさまざまな大きな壁があるとは思いますが,私は少しでもそれに近づける取り組みをしたいと考えます。したがって,私も和田氏寄りの考えです。 山本氏の「グッド・リプロダクション」もzappa1993さんがおっしゃるように,本人の言を聞かないと判断しかねますが,私は「原音再生」を目指す過程にその人にとっての「グッド・リプロダクション」が待ち構えているのではないかと思います。「グッド・リプロダクション」は目指すものでなく,結果だと思います。 そのような視点で考えると,アコリバ製品の導入やさまざまな取り組みにおいて,何度もその時点での「グッド・リプロダクション」が訪れました。今後もぞくぞくと訪れ続けることになるでしょう。 |
zappa1993 | 投稿日時: 2014/3/16 9:59 |
長老 登録日: 2011/3/17 居住地: 投稿: 1916 |
Re: Stereo Sound No.190号 ケミさん
おはようございます レスありがとうございます。 最初に今回取り上げた記事をご覧になっていない方への補足説明ですが、文中に出てくる「原音再生」とはCDやレコード等のソースの音を出来る限り忠実に再生するという意味で用いられた言葉で、原音=生演奏の再現の意味ではございません。 今季号の記事は、そもそも前季号の連載記事で和田氏が書かれた内容について山本氏が疑問を呈した点から始まっているようですので、改めて前の記事を読み返してみました。 そうすると、和田氏が仰る「原音再生」の在り方につていは主にスピーカーに焦点を絞ったものであることが分かります。 言うまでもなくスピーカーは電気信号を音響信号に変換するための機器ですが、変換効率が悪くオーディオ機器の中でも最もロスや変調の大きなものです。 また、私達の耳に届く音(振動)を作り上げる機器ですので、その構造や材質などにより再生音は大きく異なります。 私達が普段スピーカーで聴いている直接音は、ユニットから発せられた振動と、エンクロージャーの振動を合成したものになりますが、エンクロージャーが発する音はユニットの振動を受けて素材(主に木材)が共振したもので、電気信号からの直接変換ではありません。 よって、本来ならばエンクロージャーの箱鳴りはソースの音(原音)を忠実に再現したものではなく、悪い言葉で言えば「余計な音」と言えるのかもしれません。(これが悪いと申し上げているわけではございませんし、オーディオ機器メーカーも箱鳴りを含めて音作りをしているはずです) 和田氏が前季号の中で、自身が愛用されるジュラルミン製エンクロージャーのスピーカーの音がしっくりくる、或いは何の変調も受けず欠落や付加がない音が理想の音だと仰るのは、この箱鳴りを極力廃したスピーカーこそ「原音再生」に不可欠ではないかという考えが根底にあるのではないかと思います。 逆に言うと、例え音楽的に豊かな表現を持っていたとしても、木製エンクロージャーやバスレフポートの共振波等は本来ソースに収められた音ではなく「余計な音」ではないかという事の様です。 私がCDのリッピング作業に拘り続けるのも、例えは違いますが同じような考えに根差したもので、CDというソースメディアに入っている情報を出来るだけロスや変調なく取り出したいという思いから来るもので、ソースの原音再生こそが理想であるという考えの為です。 ですが、実際にリッピング作業をされた方ならお分かりいただけると思いますが、ほんの些細なことで音は変わりますし、また対策をすればまだまだ音が良くなる感触もあり、永遠に終わることのない作業に没頭している感じです。 そもそも原音が何かといことも分かりませんし、真の原音再生が可能だとも思いません。 それでも原音を忠実に再現したいという思いで取り組む中にオーディオの楽しさがあると思いますし、その中で色んな発見があり、また着実にリッピング音源の音質も良くなってきている実感はあります。 話を戻しますが、今季号の中で和田氏は、『確かにぼくは、最近ことあるごとに「原音再生を目指している」と言ったり、書いたりしています。でも、これはお分かりと思いますが、言わば確信犯的なもの言いであって、実のところは言っているだけです。本当のところは原音再生が可能だなんてこれっぽっちも思ってはいません。』 ※SS誌No.190号より一部抜粋 ともお書きになっています。 結局のところ、自分が理想とする音を求め続けるという点では誰もが「グッド・リプロダクション」を実践しているにすぎないのかもしれません。 他愛の無い話題ではありますが、この数日間ずっとこのことが頭から離れずに何度も反芻しています。 確かに、付帯音が取れて音楽情報がこと細かに再現された音などを聴くと、それまで聴いていた音は何ともナローで情報量に欠けたように感じ、後戻りできないことがよくあります。 すべてとは申しませんが、金属エンクロージャーの良質なスピーカーの音を聴いてしまうと同じような感想を抱くのかもしれません。 ※かく言う私も木製エンクロージャーのスピーカーを愛用していますし、これには昔はドロンコーンと呼ばれたパッシブラジエーターまでついています。 |
zappa1993 | 投稿日時: 2014/6/5 0:29 |
長老 登録日: 2011/3/17 居住地: 投稿: 1916 |
Re: Stereo Sound No.190号 皆さん
こんばんは 前季号のSS誌の連載記事「続ニアフィールドリスニングの快楽」を読んで考えさせられるものがあり、その後の展開がどの様なものになるのか興味を持って今季号(No.191)を手に取りました。 残念ながら、個人的には詰まらない内容でした。 「原音再生」だ「グッド・リプロダクション」だと言いながら、結局のところSPの好みに根差した会話でしか無く、建設的な議論だとは感じられませんでした。 まず何より、和田氏の「原音再生」で目指すものが、“マスターテープ”の音ではなく、“生の音”であったことに驚きました。 そんな流れでしたっけ? オーディオを趣味としておられる方の多くは、究極の理想として「生演奏の再現」を心のどこかに持っておられると思います。 もちろんそれが可能であるかどうかは別として。 逆に言えば、生音とかけ離れた音を目指した音作りをしている人が果たしているでしょうか? オーディオは各々が自分の理想とする音作りを目指して、機器選びやセッティング等を工夫するところが面白いのであり、たった一つの正解などありません。 自分の出したい音に合わせてSPを選択するのは至極当然のことで、故に市場には色んなSPがあります。(パーフェクトなSPが存在しない為でもありますが) オーディオファン同士の会話ならいざ知らず、オーディオ評論家が紙面を使ってまでするような内容では無かったように思います。 問題提起をし、今まで誰も面と向かって言わなかったような事と向き合い、その中からオーディオのニュースタンダードともいえるような思想が生まれればと期待しましたが、どうもそうではなさそうです。 |
Yo | 投稿日時: 2014/6/12 17:03 |
一人前 登録日: 2012/3/21 居住地: 投稿: 120 |
Re: Stereo Sound No.190号 zappa1993さん
ステレオサウンド誌の和田氏の問題提起に関する書き込みを拝見しました。 私は190号の時から和田氏の意見には疑問を感じていましたので、191号に到っては(微妙に論旨も変わってきているように感じます。)zappa1993さんと同じ気持ちと言うよりは、今後和田氏が意見の落しどころをどのようにうまくまとめられるのか心配しているところです。 ここで和田氏の意見の反論を書いても誹謗中傷となってはいけませんので、私の音楽再生に関する意見を書かせて頂きます。 1. かつて議論された「原音再生」について このテーマはかつて70〜80年代に活発に議論されたことで下記のように収束したと理解しています。 「原音再生とはオーディオ録音再生機器の能力として、単一楽器(バイオリンなど)を単一マイクで録音し、楽器のあった場所にスピーカーを設定して再生した場合のみ可能」 つまり下記にも述べますが複数のマイクで録音されたものをミキシング、マスタリング加工したものはたとえマスターテープであっても原音とは言えないことと、同じ環境での再生でないと原音再生とは言えないということだと思っています。 2. パッケージメディア(レコード、CDなど)を目的とした録音について これに関しては「クラシック音楽で楽譜が同じであるにもかかわらず、演奏家が違えばまったく違う音楽になってしまう。」と同じと考えます。つまりその曲の解釈と表現方法によって変わると言う意味で、録音においてもプロデューサー、エンジニアのその音楽の理解とパッケージメディアにした場合の表現方法によって音も変わる・・・と言う意味です。 かつてジャズ界で東のヴァンゲルダー(Blue Note, Prestige他)、西のロイ・デュナン(Contemporary)と言われた2大レコーディング・エンジニアが居ましたが、二人が録音したソニー・ロリンズのテナーの音がまったく違うと話題に上りました。人気としてはヴァンゲルダー録音のほうが高かったのですが、ロリンズが初来日の折ライブでの音が「ヴァンゲルダー録音のような太い音でなくてがっかりした」という意見が出たという笑えない話があります。結局自然さという意味ではロイ・デュナン録音に近かったのですが、だからといってその後ヴァンゲルダー録音が名声を失ったという話は全くありません。クラシックの録音においても英デッカ、ドイツ・グラムフォン、オランダ・フィリップスの音は今のデジタル時代においてもそれぞれの音の特徴があってそれも楽しみの一つですし、皆同じ音になってしまってはつまらないのも事実ではないでしょうか? 3. パッケージメディアの再生について これに関しては「同じ楽器を同じ演奏家が演奏しても演奏場所によってイメージや音が変わる」のと同じと考えます。これは音と言うのはその場所の音響特性に左右されると言うことで、オーディオの場合同じシステムの再生装置でも部屋が違えば音が変わるのは当然です。ましてやシステムが違えば同じ音などありえません。私たちオーディオを趣味としている者は与えられた部屋でその部屋の音響特性と折り合いをつけながらシステム調整をしていますが、目的は「音楽に感動したい」ということです。もちろん声や楽器の自然な質感とエネルギー感が再生できなければ普遍性は生まれません。また再生の音量設定でも音楽のイメージが変わります。 以上のことからの私見ではありますが、例えばモーツァルトをカラヤン=ベルリンフィルで(生で)聴いた場合、それはモーツァルトの芸術にカラヤン=ベルリンフィルの芸術が乗ったものを聴いている訳で、さらにそれがパッケージメディアになった場合はさらにプロデューサー、エンジニアの芸術が乗ると思っています。 さらにそれを再生して素晴らしい音楽世界を表現出来たならそれは「再生の芸術を加味して聴いている」と言っても過言ではないと思います。我々オーディオマニアが究極に目指すところはまさしく再生の芸術であって、生の「原音」への回帰ではないと思いますが、如何でしょうか? |
ホワイトメタル | 投稿日時: 2014/6/15 14:53 |
長老 登録日: 2012/8/21 居住地: 群馬県前橋市 投稿: 372 |
Re: Stereo Sound No.190号 zappa1993さん、ケミさん、YOさん
こんにちは 今回のテーマであります、「原音再生」「グッド・リプロダクション」について私なりに考えてみましたので、烏滸がましいのは承知の上参加させて頂きます。 因みに、SS誌NO.190、191号の記事には目を通しておりませんがお許し下さい。 何故ならば、zappa1993さんのご投稿の内容で和田氏と山本氏の言わんとしている事が何となく解ったからであります。 基本的に我々がオーディオを長年続ける理由として、良い再生音?それとも再生されたものの複製として捉えるのか?=グッド・リプロダクション?を目指して夢中になっている事が前提かと思います。 その根底として脳裏に焼き付いているのが、原音再生=生演奏や生歌の記憶が潜在して、その記憶を頼りに再生装置や電源などのアクセサリー類、そしてパッケージメディアの音源を利用して日々音楽に浸っている事だと信じております。 ハイエンドなオーディオは一般的な庶民の趣味としては大変高額な費用が必要とされ、ごく僅かな人しか所有出来ない趣味かと推測されます。 但し、300万円程度の車を購入するのを我慢してオーディオに捻出出来る覚悟があれば、相当レヴェルの高いオーディオライフを満喫する事も可能なのも事実かと思います。 当然、そのレヴェルに相応しい環境(調整されたリスニングルーム)も必要とされる難しい分野でもありますが。 いち早く正しい再生音に近づく事を可能に出来るのも自身の確かな聴覚と素直な感性が大前提の様に思いますが、雑誌やインターネット等の情報や評論家の評価を信じて導入して泥沼に嵌るケースも少なくない稀有な分野でもあります。 パッケージメディアについては、各レーヴェルそれぞれの録音方式や方法が存在して一概にどのレーヴェルとエンジニアが優れているかは判断し兼ねますし、同一の会場と指揮者とオケで録られた同曲でも良く録れている場合と良く録れていない場合があります。 その様な感覚を感じ取れるのも、生音の記憶に基づいて脳が判断しているものと思われます。 有名な優秀録音盤で、PHILIPSから発売されたCD、ゲルギエフ指揮:キーロフ歌劇場管弦楽団(現マリインスキー)の【春の祭典】1999年録音では、当時このソフトを聴いた時の所感としては荒々しい質感と大味で大胆な解釈でオーケストラをドライヴする指揮で、現代を代表するカリスマ指揮者の醍醐味をパッケージメディアで堪能しておりました。 しかしながら、生演奏とは異なる感覚は払拭出来ませんでした。 その数年後、某評論家が東京のオーディオショウで同ソフトを600万円強のSPで再生した瞬間、これは異次元でしか体験出来ない極めて機械的な人口音としてしか感じ得る事が出来ませんでした。 その数年後、同指揮者、同オケ、同プログラムで実演の機会に恵まれましたが、全く正反対で華麗でしなやかな質感と美音、洗練された表現、ピアニッシモとフォルティシモのコントランスを大胆且つ絶妙にドライヴするカリスマ指揮者の本領を心の底から満喫出来ました。 オーケストラでヨーロッパトップ3と言われているロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団では、近年RCO LIVEの一連のCDが優秀録音盤として評論家の評価が高いものがあります。 残念ながら、一度たりとも良いと思った事がなく、パッケージメディアで培われてしまった固定観念でロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団が世界屈指のオケだとは信じがたく、今年来日公演が予定されていましたので、思い切って妻とコンサートへ出かけました。 所感は、パッケージメディアとは全然違うではないか!と、またしても再認識出来ました。 この個性的なオケの音色をオーディオで再現する事が果たして可能なのだろうか? 良い意味での悩みの種が増えました。 やはり、原音再生=生演奏に限りなく近づけなければ感動は得られないのだと、個人的には確信しました。 YOさんが仰る再生の芸術ですが、大変失礼かと思い何度となく躊躇いましたが、原音再生とは少々異なる種類の再生音なのだど勝手ながら解釈しております。 ヴァンゲルダー録音のテナーサックスの再生音が、実際の生演奏より太い音だったけどその名声を失わなかったと言うお話はオーディオマニア的な内容で実に興味深いと思います。 日本人のジャズ再生においての哲学は、並々ならぬ拘りを感じます。 伝統の様に受け継がれているのだと確信出来ます。 生演奏(原音)よりも膨よかな音像、レトロ感溢れる音場、芳醇な質感、生演奏のタイトで柔らかく、すーっと抜ける音とは少々異なる再生音だと勝手ながら解釈しております。 私には再生の芸術まで達する費用と技量と哲学はありませんし、これ以上持論を曝け出す事は不可能になってまいりましたので、大変失礼ながら書き逃げと言う形で終わりにさせて頂きたいと思います。 申し訳ございません。 それでは、失礼致します。 |
Yo | 投稿日時: 2014/6/18 20:56 |
一人前 登録日: 2012/3/21 居住地: 投稿: 120 |
Re: Stereo Sound No.190号 ホワイトメタル様
ご返事ありがとうございます。「書き逃げ」と仰っているのに追いかけるような真似をしては失礼かと思ったのですが、多少の誤解があるようなので少しばかり書かせて頂きます。 まず、前項で述べさせて頂いた「芸術の積み増し論」は以前音楽の本質を自分なりに考えたときとても便利な考えだったので披露させていただきました。「作曲の芸術」「演奏の芸術」そして「録音の芸術」が存在するということです。 ここですべて「芸術」と書きましたがもちろん芸術域に達しないものも多々有ることも事実ですが、すべてが芸術粋に達した時に名盤が生まれると考えています。そして「録音の芸術」が存在するなら「再生の芸術」も有って良いのでは?という簡単な気持ちから出たものです。 ホワイトメタルさんが生で聴かれて(うらやましい)感激されたゲルギエフの春の祭典を例にとらせていただくと、「ゲルギエフの芸術」をキャンセルして「ストラヴィンスキーの芸術」だけを味わうことが出来ないのと同じように、パッケージメディアから「録音の芸術」をキャンセルして生の「原音」を再生(回帰)することは不可能だ・・・と言うのが私の考えの基本です。あくまで「録音の芸術」を受け入れた上で自然な質感、エネルギー感、そして自然なプレゼンスを求めて調整することが「再生の芸術」に繋がると思っているわけです。 私の再生を「原音再生とは少々異なる種類の再生音なのだど勝手ながら解釈しております。」との事、上記の通り原音再生を求めていないのですから仰る通りだと思いますし、その事には反論はいたしません。ただ、記憶音に頼って調整はせずに低音から高音までのエネルギー感を揃える事だけを主目的として調整することで結果としてエンジニアの意図(録音の芸術)を理解できるように再生することを心がけており、そのことが普遍性(ジャンルの違いや録音の違い、そして録音の時代に得意不得意がないこと)に繋がり、その延長線上に「再生の芸術」があるものと思っています。 何が「原音(生音)」か?・・・このことはとても難しい問題だと思っています。BlueNoteのヴァンゲルダー録音とて極めてオンマイクで録ったものゆえに、通常のライブ演奏で聴くより太くエネルギッシュな音として自然ではないと言えますが、現代のようにデジタル加工で音質まで変えたものではないだけにある意味「原音(生音)」に近いと言えます。何が言いたいかと申しますとマイクの位置で録音された音が変わります。そして同じように楽器とリスナーの位置関係や環境でも原音(生音)のイメージが変わるのです。そしてその際たるものがクラシックだと思っています。 ご承知のようにヴァイオリンは弦を擦って発音する楽器ですので近距離や狭い部屋での演奏はかなり荒く厳しい音が聴こえます。しかしこれを響きの豊かな大ホールで奏者から距離を取って聴きますと甘く漂うような美音として聴こえます。クラシック音楽を好む人でもどちらが好きかは大きく分かれるところです。そして多くの録音は指揮者の少し後ろの上方にマイクをセッティングして録音し、別マイクで録ったホールトーンをブレンドするのが一般的と理解していますので音的には前席で聴いた音に近いと思っています。私はヴァイオリンの厳しさも聴こえたほうが生々しいと感じるほうですので前席が好きですし一般的な録音にあまり違和感は感じません。しかし比較的後ろの席や2階席を好まれる「弦の荒さは聴きたくない」と言う方も多く、多ユニットのシステムで位相を混濁気味にしてその雰囲気を出したり、デジタルディレイを駆使してホールトーンを合成してプラスしたりとご苦労されている方もいらっしゃいます。もうひとつ特殊な例ですが、私の知人でクラシックの造詣が深く多くの名盤も揃えスコアで勉強もされている方ですが、その方の音を聴かせて頂いて通常以上の厳しいヴァイオリンの音に驚いたことがあります。よく聞くとかつて学生オーケーストらの一員で有ったとの事、その至近距離で多くの楽器が鳴り響く感動をもう一度聴きたいとのこと・・・なるほどと思いました。同じようなことは一関のジャズ喫茶ベイシーにVPOのメンバーが遊びに来たときに彼らの演奏したレコードを大音量でかけたら「これこそ我々がいつも聴いている音だ」と喜んで盛り上がったと言う話もあります。 ホワイトメタルさんが「CDの音が生音と違う」と仰る所以は上記の質感だけとは思いませんが、原音(生音)のイメージも人それぞれであること、そして一定ではないことをご理解頂ければ幸いです。 失礼いたしました。 |
ホワイトメタル | 投稿日時: 2014/6/19 23:46 |
長老 登録日: 2012/8/21 居住地: 群馬県前橋市 投稿: 372 |
Re: Stereo Sound No.190号 YO様
こんばんは 書き逃げと卑怯な手段をとったにも関わらず、ご丁寧に返信を頂き有難うございます。 そして、大変解りやすくご説明頂いた上に、余計な御時間と御手間をおかけした事に謝罪と感謝を申し上げます。 YOさんが仰います、「芸術の積み増し論」を大変興味深く拝見し、そして真摯で正論なお考えである事が理解出来ます。 「作曲の芸術」、「演奏の芸術」、「録音の芸術」、「再生の芸術」と述べられておられます。 作曲家と演奏家は広く芸術家として万人に認知されておりますが、録音と再生は芸術として広く認知されておりません。 しかしながら、録音(エンジニア)に芸術的要素、再生側にも芸術的要素が備わると、より深淵な世界観が生じる事は大切な要素です。 >「ゲルギエフの芸術」をキャンセルして「ストラヴィンスキーの芸術」だけを味わう 私にはストラヴィンスキーと言う偉大な作曲がいて、ゲルギエフと言う偉大な指揮者がいる事で初めて芸術を体験出来ましたので、ゲルギエフをキャンセルすると申し訳ございませんが再生には繋がりません。 エンジニアの方々は、厳しく辛く長い下積み時代を経てから一流の音楽家や奏者と出会い録音を行い、自らの経験や技術を駆使して録音物と言う作品を完成させます。 YOさんが仰る様に、エンジニアの意図を理解できるように再生する事を心がける事で、ジャンルの違いや録音の違いがあっても普遍性が生じるものと解釈出来ます。 しかし残念ながら、エンジニアの意図を理解出来ない作品が存在します。 これは殆ど場合、ある程度な感性が備わってさえいれば原音(生音)とかけ離れている事を察知して偽の違和感を感じているものだと私は考えております。 マイクについても触れられておりますが、1つの楽器をオンマイクで録ってデジタル加工していない録音は、音像が大きく実在感があり細かなニュアンスや息遣いまで収録されていて、息を飲む様なリアル感さえ体感出来ると思います。 オフマイクの場合は、少し離れた位置から冷静に楽器と対峙出来る様な感覚を得る事が出来ると思います。 オーケストラ録音においてもマイクセッティングの妙で聴こえ方は様々で好みが分かれますが、過度なコンプレッサーをかけたりディレイやリヴァーヴなどの多用で音楽の本質を掻き消してしまう場合もあります。 但し、私の場合はどんな方法を駆使してでも生音にさえ近づいていれば何ら否定もしません。 シューボックス型ホールとワインヤード方式ホールでは全く響きや質感、そして音場が決定的に違います。 その様なホール特性や指揮者の意図、オーケストラの特徴やキャラクターを的確に判断して収録された録音物は素晴らしい出来栄えに繋がると思います。 そして、いつもコンサートへ出かける際は可能な限り各会場、とびきり響きの良いとされている席をとれる様に努力をしております。 >私の知人でクラシックの造詣が深く多くの名盤も揃えスコアで勉強もされている方ですが、その方の音を聴かせて頂いて通常以上の厳しいヴァイオリンの音に驚いたことがあります。よく聞くとかつて学生オーケーストらの一員で有ったとの事、その至近距離で多くの楽器が鳴り響く感動をもう一度聴きたいとのこと・・・なるほどと思いました。同じようなことは一関のジャズ喫茶ベイシーにVPOのメンバーが遊びに来たときに彼らの演奏したレコードを大音量でかけたら「これこそ我々がいつも聴いている音だ」と喜んで盛り上がったと言う話もあります。 これらの御話、素晴らしい内容ですね。 私の場合お笑いのアマチュアエレキギターですが、少年期〜青年期にかけてスタジオでバンドの練習を数百回程度行っていた時期がありましたが、そもそもが歪系や空間系のエフェクターかけまくりのハードロックですので、少々感覚が異なりますが狭い空間で演奏をする側の快感は、音の良し悪しよりも自ら奏でた大音量に主観的に向き合って模索している感覚みたいな感じです。 そう考えると、再生側(リスナー)は気軽で贅沢な感覚に浸れると思います。 再生側は十人十色全く異なる人生を歩んでいて、音楽に精通する職業の方やその正反対で全く音楽とは無縁で楽器の演奏経験やコンサートにさえ出かけない方々も沢山おります。 でも、素晴らしい再生音を出している方々も相当数おられる事と推測されます。 この掲示板の常連さんはですが。 YOさんが仰る再生の芸術に至れる場合は、エンジニアの意図や音楽全般の豊かな経験、オーディオにおける使いこなし術や理想的な環境、電気工学などの理論の習得、自身の芸術的な感性が備わっていなければ芸術の域に達する事が出来ないのでしょうね。 zappa1993さん、突然割り込んでしまいまして申し訳ございませんでした。 それでは、失礼致します。 |
zappa1993 | 投稿日時: 2014/6/28 21:28 |
長老 登録日: 2011/3/17 居住地: 投稿: 1916 |
Re: Stereo Sound No.190号 Yoさん
ホワイトメタルさん こんばんは 返事が遅くなりまして申し訳ございません。 当初紙面では、オーディオにおける音楽再生の取り組み方として、「原音再生」と「グッド・リプロダクション」という二つの考え方について論じられていたように思いますが、一転して「原音再生」の指す意味がすり替えられ、当たり障りのない話に終始してしまったことで、折角の問題提起が台無しになってしまった感は否めません。 強固なジュラルミンエンクロージャーのSPを選ぶか、箱鳴りのある木製エンクロージャーのSPを選ぶかは、出来るだけ忠実に「原音」に近づけたいとする考え方か、例え多少の色付けがあったとしてもそれを含めた音に心地よさを感じられれば良しとする考え方かの違いで、好みの問題も多分に含まれる為、どちらが良いかについてはいくら議論をしても水掛け論にしかならないように思うのですが如何でしょうか?(もちろん最低限の再生レベルに達していることが条件ですが) 私もオーディオ評論家を批判するのが目的ではありませんし、批判できる立場にもありませんので、自分が思ったことを少し書かせていただくことにします。 (Yoさんやホワイトメタルさんの投稿に対する直接の返答になっていない点お許しください) まず、「原音再生」と「グッド・リプロダクション」のどちらが正しい在り方かと言う2者択一のような選択肢になっていますが、私はここに違和感を覚えます。 私が思うには、「原音再生」は目的或いは目標であり、「グッド・リプロダクション」は行為或いは行動であるからです。 オーディオファンの目標は「原音再生」(ここでは生演奏の再現の意)だけではなく、自分が好みとする音に調整することも目標の一つです。 それらの過程で行うのが「グッド・リプロダクション」であり、これは自身が意識しようがしまいが必ず行っていることで、この行為を否定することは出来ません。 リプロダクションと書くと、何か手を加え作り直しているかのような印象を受けますが、これを適宜目標とする再生音にとって好ましい方向を辿る行為という意味で捉えれば、その先が「原音再生」であってもそうでなくても、行為自体は同じことのように思います。 (リプロダクションの内容は千差万別で、それについては別に考える必要があります) 故に、「原音再生」と「グッド・リプロダクション」のどちらが正しいかと議論しても答えなど出るはずはなく、堂々巡りを繰り返すだけのように思います。 パッケージメディアに閉じ込められる前の「原音」がどの様なものであるかは、我々オーディオファンには分かりませんし、Yoさんが仰るような原音再生の定義(先の投稿の1番)に即して考えると、パッケージメディアが必ずしも「原音」を示していないことになり、また我々が想像する「原音」の種類も無限大であるように思います。 そうであるならば、我々が「原音再生」を目指す行為はなんとも無謀で不可能な事のように思えますが、生演奏を聴いているかのような雰囲気や感動を再生音から感じ取れるようにオーディオを調整することは可能だと思いますし、その為に生演奏を聴いた時の記憶や感動が役に立つことは間違いありません。 最初に申し上げましたように「原音再生」は目標のようなものだと思いますが、これを目指してオーディオに取り組んだからと言って必ずしもそれが達成される訳では無く、逆に「原音再生」を特に目指していなくても、これまでに聴いた生演奏の記憶を頼りに自分の理想とする音を追い求めた結果「原音」を彷彿させる様な再生音になることもあり得ます。 何れにしても、「原音」と思われる再生音が達成されたときに最大級の理解や感動が得られるという例は十分に考えられますし、私も出来るだけ変な色付けは排除したいという考えを持っています。 2月ほど前の話ですが、十数人しか入れないような小さなギャラリースペースに、アコースティックギターの弾き語りライブを聴きに行きました。 アーティストとの距離は2mほどしか無く、また、立って移動しながら演奏するためもっと近づく事もありました。 私は椅子に座って聴いていたのですが、ギタートップの向く方向によって随分と音が変わることを意識し、興味深く感じました。(分かり切ったことなのですが、この時はそれが妙に気になったのです) トップ面がこちらを向いている時は一番大きな音がし、ギターの音色も響きが豊かで生演奏の醍醐味が感じられますが、トップ面の向きが少し変わるごとに大きく聴こえ方が変化します。 音だけを比べれば、ギターの向きによって随分と違いがありますし、トップ面がこちらから殆ど見えないような時はハッキリ言ってあまり良い音としては耳に届きませんし、録音物がこの様な音なら悪い録音となるでしょう。 しかし、その場で生演奏を聴いていれば、例えギターがどんな方向を向いていようが、どの様な音として聴こえようが、ギターの演奏を聴いているという意識には変わりがなく、「これはギターの音ではない」等と思う事は一度もありませんでしたし、演奏を楽しめなくなるという事もありませんでした。(流石にずっと背を向けて演奏されれば欲求不満になったでしょうし、大きなホールで聴くクラシックなら聴く位置によっては酷い演奏に感じることもあると思います) 以上は全くもって当たり前の話なのですが、これが録音物(パッケージメディア)の音質、或いはオーディオ装置での再生音に置き換えて考えてみますと、必ずしもそうではないような気がします。 例えワンポイントマイクで録音されたものであっても、マイクの位置によって録音物の音は変わりますし、これは演奏者と観客(+空間)の位置関係と同じです。 レコーディングエンジニアは経験と勘、そして自らの感性によりベストと思われるマイクセッティングを行いますが、それとて無数にあるポイントそして音の一つでしかなく、どうしても録音の良し悪しが生じてしまいます。 優秀録音盤は聴いて楽しむことができるが、それより劣る音質の盤を楽しむことができないことがあるのは、どうしてなのでしょうか? 次に、オーディオでの再生に目を向けますと、再生環境によっては本来の楽器の音色からかけ離れた音になる事もあります。 「薄っぺらい」「キツイ」「膨らんでいる」等々表現は色々とありますが、生で聴く音との違いは明白で、生音ではあり得ないような要素を含んでいることもあります。 何故そうなってしまうのでしょうか? そして、私が一番問題にしたいのは、多くの場合、生演奏であれば例えどのようなバリエーションの音でも同じ楽器の音色として感じ取れるのに対し、パッケージメディアを通じオーディオで再生した音では必ずしもそうではないという事です。 「生のギターはこんな硬い音ではない」「本当のバイオリンはこんな耳に刺さるような音ではない」等の表現はしょっちゅう見聞きしますし、私もそう思う事があります。 そもそもオーディオでの再生は、電気信号に変換された音を再びSP等で音波に変換して聴くわけですから、ロスや変調があるのは致し方ありませんし、音の変化が避けられないことは理解しています。 それでも、先に書いたような生音との違いや不快さを感じるということは、それだけ生音との隔たりがあるという事に他なりませんし、オーディオ再生の難しさを物語っているように思います。 言うまでもなく視覚的な要素は多分にありますので、生演奏を見ながら聴く音と、イマジネーションを膨らませて聴く抽象的な音とで、感じ方の違いがあるのは想像できます。 ですが、その違いを差し引いたとしても人間の聴覚というものはどの様にして微妙な音の違いを聴き分けているのか、どこに本物らしさを感じ取るのか、或いは本物に近くなくても良い演奏と感じる要素は何なのか、考え出すと切りがありません。 趣味としてオーディオを楽しむという事は、再生音の美しさや音楽から感動を得たいという思いがあることが前提だと思いますし、人それぞれに思い描く理想の音があると思います。 色々と理屈をつけて「良い音」を語ることはできますが、真に良い再生音と言うものは理屈抜きに感動できるものですし、そこには必ずしも「原音再生」という文言は必要ありません。 結果的にそれが「原音」に忠実な再生だったのかも知れませんし、或いはそうでは無かったのかも知れません。 「原音再生」は理想ですし、私もそれを否定しませんが、もし前述した再生音が後者だったとしてもその再生音の価値が下がるものではありませんし、寧ろそうした再生が可能だという点にオーディオの素晴らしさを感じます。 なんとも取り止めのない文章になり申し訳ございません。 |
Yo | 投稿日時: 2014/7/6 1:24 |
一人前 登録日: 2012/3/21 居住地: 投稿: 120 |
Re: Stereo Sound No.190号 ホワイトメタルさん
zappa1993さん ご返事ありがとうございます。 お二人の投稿を拝見いたしますとやはり「原音再生」と言う言葉にはそれなりに魅力をもって受け止められていると拝察いたしました。私の世代で昔からオーディオをやっているものにとりましては「原音再生」と言う言葉は「またか?!」と思うと共にかび臭いものを感じてしまう言葉なのですが(私だけかもしれませんが)、お二人のようにデジタルからオーディオにお入りになった方にはそれなりに新鮮で魅力ある言葉なのかもしれません。 何故私がここまではっきりと「原音再生なんてありえない」と言うのは自分自身への戒めでもあるのです。ホワイトメタルさんはたぶん「原音(生音)を無視した音」=「独善的な音」と考えておられると思うのですが、もちろんそれはそれとして正しいことなのですが、反対に「原音(生音)を意識し過ぎることで独善的な音になっている人」も少なくないのです。私が前項で「記憶音に頼って調整しない」というのがそれで、生音の記憶が固定化している人がその音に頼って調整することでバランスを崩して普遍性のない音になっていることも多く経験しているからです。 私が演奏にしろ録音にしろ、何でもかんでも「芸術」と書いたので誤解されているかもしれませんが演奏と同様に録音も良い悪いがあって「低域や高域を強調し過ぎ」「アンビエンスなどの効果をかけ過ぎ」「ソロ奏者のクローズアップが不自然」・・・などいろいろ悪い録音もありますが・・・エンジニアの肩を持つわけではないですが(笑)・・・あの2つのスピーカーから音楽の情報と雰囲気を仔細もらさず再現できるようにとエンジニアが努力した結果がパッケージメディアやソフトなのですから、それをそのまま受け入れて(何も足さず何も引かず:アコリバのコピーのパクリですね:すみません)再生することが普遍性に繋がると言いたかったのです。もちろん機器による差(スピーカーなら能率の差、指向性の差、振動板の材質と大きさの差による質感の差・・・など)が音の違いに出ますし、部屋の差も大きく音に影響します。・・・それで良いのです・・・ふたつとして同じ音はありません・・・ただ音楽が耳だけでなく体や心にまで届くかどうか、その方がずっと大事だ・・・と言うのが私の考え方です。 余計な事を書いたかもしれません。失礼しました。 |
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