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   [00-03]音楽全般
     〜1.「境地」の音楽と言葉の再生〜
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投稿者 スレッド
tomoyuki
投稿日時: 2012/9/25 21:32
新米
登録日: 2011/5/27
居住地: 愛媛県
投稿: 17
〜1.「境地」の音楽と言葉の再生〜
第1回目の連載として論じたいのは、「境地」と「音楽」の関係です。
「境地」より生じるのは「音楽」でしょうか。将又そこまで熟慮せずとも「音楽」は創造される物なのでしょうか。
「音楽」製作の経験が無い素人が述べる、音の成立過程です。

?「老い」と向き合う
 物理学的な「永遠」と、ひとりの人間の「永遠」の相違とは何なのでしょうか。
血気盛んな頃は自分の命の限界を考えず、何時の節目、転機にも自分が生きていることを疑いません。
言葉そのものとして「永遠」を捉えているのでしょう。
しかし年を重ねると、勢いに任せて後先考えないような振舞は中々起こせません。
命の限りが近づくと、人間にとって「永遠」は観念的なものでしかないことを思い知らされます。
実際若者にとっても無縁の話ではないはずなのですが、「永遠」を阻むものは他ならぬ今現在であると理解出来ず、現前の物事を一つ一つ追うように生きているからです。
何らかの偶然により「永遠」が阻まれる今を明確に実感にした時、はじめて「永遠」と今との狭間に自分がいることを意識し、老いを感じるのではないでしょうか。
 
 そのことを悟ったとき、人間は老いに対して様々な抵抗を試みるでしょう。
ある人は、人は死して名を残すことを信じ、過去の栄光を必死に掘り起こそうとします。
実業家なら一門の名声が永久に残ることを期待し、勲章を集め、己の銅像を工作するでしょう。
こうした死後を頼みにした営みは、老いから生じる不安を「永遠」への期待によって軽くすることが出来ます。

 また他にも、残された生命がある今を充実させて、死を忘れることも手段として挙げられるでしょう。
ある人は所有物を拡大することで満たささると考え、商品が全ての社会で最も融通の利くものである貨幣を貯蓄し続けるでしょう。
 またある人は今残っている正常な感覚を通じて、迫り来る死を忘れようとします。
体が健康な人は海外旅行をして異国情緒を楽しみ、筋肉に余裕のある人はスポーツを楽しみ、聴覚の衰えない人はオーディオを楽しむでしょう。

 巷間でしばしば取り上げられる以上のような、死を忘れるための生への執着は、しかし、永続きはしないでしょう。
必ず肉体におこる疾患によって中断を余儀なくされます。
ここから老いと真に向き合うことが始まるのです。
ですから、健康な感覚をもっている人たちの生命からは「永遠」と今との接点が見出せず、彼らがどれ程年を重ねても「永遠」と今との問題には向き合えません。
何らかの身の異常により世の終わりを感じるようになってはじめて、「老人」は今の重大性がわかるのです。
「老人」の始まりは「永遠」への望みが絶たれた今を如何に生きるかを瞑想するようになった頃なのかもしれません。

 この際、「今」の危機を覚えるのは当人の身内や伴侶ではなく、あくまで個人であり問題に取り組むのは本人だと思われます。
「永遠」が今の危うさによって揺るがされている時、如何に生きるかを個人の事柄として担うことが出来るか、という問題です。
そして問題に当たった時、前述したように、既に何らかの特権階級に座る人、或いはそう自負している人は、人は死して名を残すと信じていても結局の処当人としては問題はないのでしょう。
しかし、私たち一般市民にとっては、人生を如何に生き、何に価値を見出すかを自分で決めることこそ自立の証になるのだと思います。
無名で一切の特権と無縁の一般人の生き甲斐は自分でないとそう生きられないように生きることを意識し始めると、恙無く平凡な日常も銘々の個性(この掲示板に絞れば「音楽」を指すでしょうか)を持ってすれば、生き生きとして精神の安定が図れるのではないかと思います。

 ここまでの話(「永遠」の自覚から見出される「老後」の価値)が「音楽」製作に影響を及ぼすかと問われると、そんな大層なことは頻繁に有るはずも無く、作曲したいから作る、この題材を曲にしたいから作る、心に響いたから曲にする、そんな単純で感覚的なものなのかもしれません。
 しかし、東日本大震災を経験し、表題に掲げたように、「境地」に与える音楽、又は「境地」より生じる影響の大きさには計り知れないものが有ると感じました。
前者は、窮地において被災者が音楽からつかの間の安らぎを得、後者は、アーティストが被災者の現状、震災の甚大な被害に突き動かされるようにして作曲する、これは「境地」の音楽の力を認識するには十分ではないでしょうか。
tomoyuki
投稿日時: 2012/9/25 21:47
新米
登録日: 2011/5/27
居住地: 愛媛県
投稿: 17
Re: 〜1.「境地」の音楽と言葉の再生〜
(続き)
?言葉の力を再認識する
 ではここから本題に入ります。
アーティストが、震災のように作曲に計り知れない影響を及ぼす出来事に遭遇すると、作曲(正確には作詞)への意識はどう変化するのか、またその概念は言葉との関わり、人の生き方にまで応用されないか、という問題に焦点を当てるとします。
 
 これ程自然の不条理を感じる震災を体験すると、人生自体を自然と眺望して、言葉を利用、いや慎重に発するようになります。
しかし、私たちが今置かれた言葉の状況を鑑みますと、議論や論争、そうでなければ情報の伝達や何かの立証といった言葉を道具として扱う場面が散見されます。
愛情表現や憎悪の感情など喜怒哀楽の表現として言葉を正確に用いる場面よりも、言葉を理性的に働かせる場面の方が多く、確かにその場合、言葉の役割の大きさを実感する機会が多いようです。
感情は言葉を組立てなくとも(勿論必要な場合も多いですが)、泣いたり笑ったり、あるいは身振り手振りで十分表現出来ます。
この理性的な時代において、不思議なことに感情に関しては直接的に表現する方が好まれるのです。
言葉は単なる道具ではないと盛んに叫ばれる一方で、言葉は道具だと考えてみると、先に述べた現在の言葉の状況が鮮明に見えてきます。
ですから、感情を読み込む曲の歌詞(言葉)が、現在まで様々な道具が生まれてはより簡略に、より便利になり、そして使い捨てられていくのと同様の過程をたどっているのです。
これでは、言葉が「境地」に困窮する被災者に届くことは難しいでしょう。

 しかし、言葉が単なる道具には決して成りきることは無いように思われます。
杞憂に終わる訳ではなく、確かに他人に向かって話しかける際にも、言葉が道具に成り下がっていることも珍しく有りません。
ですが、私達は言葉を介して感情を吐露するだけでなく、自己の内面を省察する、つまり自分自身に向かって話しかけることが出来ます。
更には、自分自身も超えて、何か大いなるもの(神仏、悪魔、死者、天地)に向かい、話しかけることもあります。
そこでは、言葉は単なる道具どころではなく、呪術的な要素も兼ねるものとなります。
その上で、大いなるものに助けを借り、思いを馳せながら、自分自身に語りかけることが作曲には重要だと考えます。
自己の内省、それは「自分であって自分でないような存在」に語りかけ、今生きる自分を絶対化することには繋がらず、「死後」の自分を絶対化することではありません。
今と「死後」同様に厳然として存在する「自分であって自分でないような」ものに思いを巡らせ、そこから自分(の人生)を眺望し、自己を相対化することで、その曲に触れる者のありようを顧みることなのではないでしょうか。
そうすることで、聴き手の心情に思いが到り、一つ一つが今の自分と重なり合い、今に囚われては見えてこないものを理解し、たわいもないことに感情豊かに触れることが出来るのだと思います。

 最後に、以上の事を心に留めた上で、作詞のみならず言葉を扱い、音楽さらには文学へと昇華させるとはどういう事でしょうか。
まず言葉というものが、言葉という形に定まらずに居る状態から、重さの感じない軽いものがふわっと固まる瞬間が訪れます。
もやもやとした思いが形になる。
自分が納得するような形になる。
それだけでなく、他人も納得してくれる美しい形態を得る。
その言葉自体が価値を有する豊かで生き生きとしたものなのです。
物事を遠くから眺望するのも、こうしたもやもやとした感覚的なものが形になる喜びの刹那をより味わえるからかもしれません。
この喜びは、人間の言葉の扱いを根本から変革させる力があるのではないでしょうか。
言葉が単なる道具でしかなく、常に消費されるものであれば、いつの日か人は言葉を信じなくなるのかもしれません。
前述した通り、我々の日常生活では言葉は単なる道具として扱われることが多く、消費され、浪費され、使い古され、最後には消滅してしまうかもしれません。
しかし、言葉の使い捨てを厭わなくならないように、消費を引き止め、再生させて言葉を意味有るものとして残しておくには、もやもやしたものが形(言葉)になる喜びを確と実感することが少なからず支えとなるはずです。
こうして言葉との関わり方を回復せねばならないのだと思います。

-------------------
昔から、言霊という概念が信仰されてきましたが、今回述べた事柄もそれを基とするものです。
言葉には不思議な力が宿っており、名状し難い混沌を言葉によって地道に秩序づけることで言葉の創造がなされ、そうしてはじめて聴き手に共感してもらえる独創的な歌詞が生まれるのだと思います。
文学にも昇華しうる程に言葉に思いを込めて、このように歌手活動をされているのは、誠に主観的ながら、『さだまさし』さんが妥当だと思っています。

この一端を音楽全体に照合させても同様のことが云えるのではないかと思います。
多種多様な音楽分野も其々が黎明期を疾うに通過し、趣味の多様化も後押しして音楽家自体が国民的な熱狂で迎え入れられる、昂奮の時期ではありません。
しかし、その中でも、着実に日々の生活は流れていく以上、生活に変化や喜怒哀楽をもたらされる際に、独創的で思いの込められた新たな表現が絶えず生み出されなければなりません。
でなければ、私達の趣味としての「音楽」も発展はおろか留まることさえ許されず、言葉が浪費、酷使され、消滅するのと共に人の心の豊かさをも道連れにして消沈してしまうでしょう。
言葉との関わり方を考え始めた社会にはいったん「音楽」そのものが終焉を迎えたような錯覚が溢れるかもしれませんが、それは新たなものが生まれる真の発展を予兆するつかぬ間の静寂だと信じ、その開花を待望したいと思います。
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