メイン [11-02] USBアイソレーター RUI-1 (5)RUI-1試聴報告 | 投稿するにはまず登録を |
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投稿者 | スレッド |
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tomoyuki | 投稿日時: 2011/12/9 2:06 |
新米 登録日: 2011/5/27 居住地: 愛媛県 投稿: 17 |
(5)RUI-1試聴報告 今回はRCA-1.0PA、USB-1.0SP、RHC-2.5HE-B、LAN-1.0PA&RLI-1に続いて5回目の試聴報告です。
RUI-1は端子が2つに分離しているものを試聴しました。 (4)試聴報告の表現を用いますと、各々の部分で自然のままの音を障壁が妨害しており、其々が違った風に邪魔をしているようなのですが、PCからDACへと通る際に、このRUI-1はUSB-1.0SPの素直さを更に高めてくれました。 この変化は別段(電源の改善には見られるようですが)躍動感が増し、鮮明な演奏音になった訳ではありません。 しかし、遥かに刺激的で音の大きいトランペット音が丸く収まり、その音の貫通力を残したまま数秒足らずで違う楽器の演奏に移る際に、静寂を残して消えていくのです。 LAN-1.0PA&RLI-1の効果を障壁をも含めた根底からの音の変化と称しましたが、RUI-1はこれぞ陰の立役者とでもいうべき効果でしょうか。 一瞬、差異を感じないため聞き逃していた音楽に、以前気になっていた楽器の演奏音が少し改善されていることに気がついたのです。 勿論「変化」は明瞭なのでしょうが、その「変化」に気付かない程に特定の障壁が取り除かれ、それに気付いたときには気付かない程音が「変化」していたということでしょうか。 そんな不思議な機器(アイソレーター)は、今までの市販品をアコリバ製品に交換したときの変化とは様子の異なる「変化」でした。 これが特定の箇所のケーブルの実力ではなく、あくまでUSB-1.0SPを補完するものに納まっているとは静かに眠る自然を起こしてしまったような印象を覚えました。 RUI-1は如何にもアコリバさんの標榜する「自然」らしい変化をもたらすものでした。 以下に記していたものは音楽全般カテゴリに移行しました。 〜1.「境地」の音楽と言葉の再生〜 https://acousticrevive.jp/xoops/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=2021&forum=2 |
zappa1993 | 投稿日時: 2011/12/13 21:06 |
長老 登録日: 2011/3/17 居住地: 投稿: 1916 |
Re: (5)RUI-1試聴報告 〜?「境地」の音楽と言葉の再生〜 tomoyukiさん
こんばんは zappa1993です。 書き込み拝見させていただきました。 RUI-1については私も似たような感想をもちました。 私もtomoyukiさんと同じく2端子仕様のRUI-1を使っております。 これをリッピング用の外づけCDドライブとPCを繋ぐUSB1.0SPに利用しています。 再生装置に用いているわけではないため、通常の信号の流れ(PC→RUI-1→オーディ機器)とは逆の流れ(オーディオ機器(CD)→RUI-1→PC)になります。 元々はPCから混入するノイズを除去する目的で作られたものだと思いますので、逆の流れでは本来の効果を十分に発揮していない可能性があります。 それでもUSBの電源ラインはPCから出力されるため、RUI-1を用いた効果はあると思います。 以上の用に逆方向への使用ということを前提に書かせていただきます。 tomoyukiさんの感想にもあるように一聴でハッキリと分かるような違いではありませんが、それでも音色の再現性が高まっているのがわかります。 一番の違いは音の余韻です。 バラード曲では包まれるような優しい余韻がとても心地よい気持ちにさせてくれます。 この違いを知ってしまうと、大きな違いではないにしろRUI-1無しの音が物足りなく感じるのは事実です。 正方向への使用方法なら更に素晴らしい効果があるのだと思うと、RUI-1を生かしきれていない現在の使い方は何かもったいない感じです 力の入った論文拝見させていただきました。 5回ほど読み直しようやく仰りたいことが分かってきました。 改めて私の思うことを文章にまとめて投稿させていただきます。 |
zappa1993 | 投稿日時: 2011/12/28 23:55 |
長老 登録日: 2011/3/17 居住地: 投稿: 1916 |
Re: (5)RUI-1試聴報告 〜?「境地」の音楽と言葉の再生〜 tomoyukiさん
こんばんは zappa1993です。 うまく文章にまとめられず、返事が遅くなりまして申し訳ございません。 tomoyukiさんの仰りたいことが全て理解できているとは思いません。 中には誤った解釈の上で論じている部分があるかもしれませんので ご指摘ください。 前半の死を忘れるための生への執着という部分は、本質を上手く理解できていないと思いますので私の考えを書かせていただきます。 永遠というのは概念であり、現実世界において本当の意味で永遠というものは存在しないのではないでしょうか。 物質的にはもちろんですが、定理と思われた概念すら時代とともに変化しており、永遠というものは「その時点で永遠と思われる」という一つの尺度でしかないように思います。 私が思うのは、人は誰も永遠であるなどと考えている訳ではなく、何事にも終りがあるという事実に目を背けているだけではないでしょうか。 死を悟ってから初めて自分の生涯を真正面から向かい合うようになるという部分は私も同感です。 言葉には自然に口をついて発せられるものと、思考作業の後に発せられるものの2通りがあります。 作詞というのはクリエイティブな作業で、神がのりうつったかの様に自然発生的に完成するものではなく、人為的に選ばれた言葉の組み合わせです。 当然、作者はこの言葉の組み合わせの中に伝えたいメッセージを込め、或いは「韻」を利用して曲との一体化を試みます。 そうゆう意味においては、主査選択して利用される言葉というのはメッセージを伝える道具として捉えても良いと思います。 しかし、言葉が単に道具として終わらないのは、tomoyukiさんが仰るように、そこに魂の様な何かを感じることができるためです。 作詞という作業の上で発せられた言葉は、最初は単なる言葉の羅列かもしれませんが、その言葉の集合体に込められたメッセージに人が共感することにより、それは単なる言葉ではなくなります。 そして時には大勢の人々の言動を変化さすような大きな力を発するかもしれません。 震災の後、多くのミュージシャンが自らのメッセージを込めた曲を書き発表しました。 人それぞれ使う言葉は違いますが、気持ちは同じでしょう。 私たち人間は発せられた言葉の中からその本質を読み取る力を持っています。 メッセージソングを歌うアーティストが、単なるパフォーマンスなのか、そうでないのか。 私は偽善者的なパフォーマンスが大嫌いです。 言葉は気持ちを伝える為の単なる道具かもしれません、しかしそれは同じ道具でも言葉を表記した活字とはまた違います。 そこに込められた思いがあるからこそ、言葉が生きてくるのではないでしょうか。 至らない文章で申し訳ございません。 |
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